人間は必然的に狂っており、狂っていないというのも別の狂い方で狂っている事になろう。
と言ったのは、かの有名なパスカル。時代が今に変わっても、他者から「あいつは狂っている」と言われることはあっても、当人は狂っているとは自覚していないだろう。それよりも、自分の目指すこと、やりたいことに素直に一直線に、ひたすら真っすぐな思いに突き動かされているはずだ。たとえ信じているものが、善でも悪であったとしても。
上記のことを、主人公のヨーゼフに重ねてみると、アウシュビッツでの人体実験は彼の野望を実現するため、彼が崇拝するヒトラーのために行ったことも捉えることができる。観劇後、チラシに入っていた町田誠也の本作への思いを読んだが、ヨーゼフはいかなる時も「人間」だった。史実をここまで膨らませた-などと感動した人もいるだろうが、私には発想の時点でブレが生じてしまった作品に見えた。
観劇後にお姉様たちと感想を話し合ったが、
・札幌では頑張っていると思う
・単調で長い、人間を描き切れていない
・ヒトラーのパーキンソン病は何だったの?ヒトラーの主治医じゃなかったの?
・ドイツ人女性は凛としている。「大丈夫?」なんて気づかうのはザ・日本人。だから全員が日本人にしか見えなかった
・たとえ狂っていても、実験に自分の妻を巻き込むことはないのでは
・西洋の日常の作法などが分かっていない
・結局、何を言いたいのか分からない
・妹は「できる姉」にむかついていただけ、というのも不思議(それでやっかまれる姉もかわいそう)
・妹が恋人より活動にのめり込んだのは何だったのか
・前作(ニュートンの触媒?)と筋立てや展開が似ている
などとの意見が出た。
一方で、飛世早哉香が演じた妻の衣装はかわいらしく、高野吟子のブラジルのおばちゃんは好感が持てた。
・2017年11月12日18時、ターミナルプラザことにパトス
text by マサコさん